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青年団と憲法 |
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はじめに
青年団とは、その地域に住んでいる若者であれば、誰でも入団できるゆるやかな若者の組織です。過疎化や労働環境の悪化などで若者を取り巻く状況はどこも非常に厳しいですが、それでも青年団は全国各地で盆踊りや地域の清掃活動、子ども達との取り組みなど地域のために様々な活動を繰り広げています。そんな地域青年団が各道府県ごとに組織され、全国組織のネットワークを形成しているのが日本青年団協議会です。
戦後青年団の歩みは、まさしく憲法とともにあったといえます。青年団は戦前・戦中に大日本連合青年団として国策に協力し、侵略戦争に荷担した暗黒の歴史があります。また、大日本連合青年団は男性のみで構成されるなど、女性が活躍できる場が奪われていました。
戦争が終わって、地域に帰ってきた若者たちの願いは、「戦争はもういやだ」というものでした。それは、新しく制定された日本国憲法によって具体化されます。以降、青年団は民主的で平和な社会をつくることを目標に掲げ、それぞれの地域で憲法に基づいた価値観を基盤に活動を繰り広げていきます。青年団が男女一体化したのも、憲法・教育基本法の公布によって男女平等がうたわれたことが、大きく影響しています。言うまでもなく青年団は、多種多様な思想信条を持った若者の集団です。しかし、そうした歴史的経緯があるが故に、直接的な行動には現れなくても、素朴な平和を求める精神が今日まで脈々と受け継がれています。
結婚式改善運動 〜第24条を地域と暮らしに活かす
新しい時代が到来したとはいえ、農村には封建的な因習や慣習が残っていました。戦後の青年団は、地域からこれに対して真正面から取り組んでいきます。中でもとりわけ特筆されるのが、結婚式改善運動でしょう。
この運動の始まりは、1962年に敦賀市で行われた福井県青年問題研究集会での「結婚式が昔ながらのしきたりで、不合理や無駄が多いのではないか」という発言からでした。当時の農村では、結婚は田畑を売らなければならないほどお金のかかるもので、例えば「結納金は10〜20万円、その10倍を花嫁道具として持って行く」「披露宴を6〜8時間もあるいは2日間にわたって行われる」(山内清一「私の青年団結婚」より抜粋)などです。この分科会に参加した仲間たちは結婚について討論し、分科会のまとめとして「結婚は憲法にも明記されているように、家がするのではなく本人が自分の意思で行うものである。そのため、結婚する二人が、結婚と人生について真剣に考えて結婚観をまず確立することである。その意味でこの出発点である結婚式がどのような内容を持つべきか回答が出てくる」ということを確認しました。
この分科会に参加した丸岡町の青年は、ちょうど結婚の話しがあったためこのことについて真剣に考え、仲間と話しあい「丸岡地区青年団結婚運営委員会」をつくり、結婚に関する学習会を始めました。そして翌年、「変わり者のようで世間体が悪い」「会費をとる式など聞いたことがない」「披露宴が寂しく手みやげがないのは我慢がならない」など、親や親類の反対の声を押し切り、青年団結婚式県下第1号として、仲間たちの手による手づくりの結婚式を行いました。この報が県下に伝わると、ただちに鯖江市や大野市にも青年団結婚によるカップルが生まれていきます。これらの動きに対し福井県連合青年団は、「青年団結婚の推進を地域の民主化のための社会運動の大きな柱」と位置づけ「福井県青年団結婚推進委員会」を設置し「青年団結婚憲章」を制定します。その内容は次の通りでした。
「前文…結婚は男性と女性が愛情と信頼の上にたって、明日へのよりよい生活と幸せな未来を創造するために、自分の意思によって行うものである。これまでは家と家とのつながりに重点が置かれ、女性は男性の『家』に嫁入りしたのであるが、私たちの目指す結婚は、あくまで妻となり夫となるものでなくてはならない。従って、婚約に際して家に結納金を送ることは絶対にやめなければならない。〜後略〜」
前文以下7条から構成されるこの憲章は県内の仲間たちに強い関心を持って受け止められ、県下に青年団結婚式が続々と広がっていきました。また、これについての参考資料を求める声が多くなり、推進委員会では「青年団結婚のしおり」を1万5000部作成、県下の全団員に配布された他、この実践を契機に各地で結婚近代化ゼミナールが開催されるなど、若者が求める民主的な社会づくりに大きな成果を上げます。まさしく、男女平等を定めた憲法24条の理念が暮らしと地域に輝いた瞬間だったのでした。
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憲法24条がしるされている |
戦後50年目の不戦の誓い 〜世界平和を第9条とともに〜
戦後50年を迎えるにあたり、日青協は3年間かけて歴史を見つめる学習を行います。まず、92年に沖縄で、翌93年には長野で全国理事会を開催し、現地の戦跡を見学するなどの学習の場をつくりました。そして戦後50年の節目を迎える95年1月、さらなる学びの積み上げとしてソウルで理事会を行います。この学習の旅は、参加した理事に大きな衝撃を与えました。元「従軍慰安婦」、在韓被爆者、強制連行被害者の方々からの体験談をうかがい、被害者の生々しい傷跡にふれた参加者からは「すまないという気持ちで一杯だ」「肉親の犠牲が一方で大きな加害を生んでいたという事実をどう考えたらいいのか」など歴史の事実を知った苦悶の声が寄せられました。加害の歴史を知った参加者たちは、その率直な思いを「不戦の誓い」としてまとめ、独立記念館前で読み上げます。それには次のような文言が盛り込まれました。
「ソウルで真摯に歴史を見据えた私たちは、今一度、日本国憲法の精神を思い起こさねばなりません。苦い戦争の精神から「国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という平和憲法が生まれました。その精神を守り、実践することによって、アジア地域、そして世界中の人々と手をたずさえることができるのです」
こうした数年間にわたる日青協の取り組みは、地域に残る戦跡を掘り起こす実践へとつながり、数年後に「戦跡を見る」という小冊子にまとめられました。
実は、日青協がソウルで理事会を開催するのは、このときが初めてではありません。我が国が朝鮮半島を植民地支配していた1939年にも、大日本連合青年団第15回大会がソウルで開催されています。これは、朝鮮連合青年団が結成され、日本の青年団が朝鮮青年もその傘下におさめたことを誇示するために開催されたのです。それから半世紀以上が経過した20世紀の終わりに、私たち青年団は同じソウルで歴史の事実を直視し、新しい時代をつくっていく決意を改めて表しました。このことに第9条の精神が底流にあることは、言うまでもないことでしょう。
むすび
日青協は、毎年5月3日の憲法記念日に全国の理事と共に憲法学習会を行います。今年の学習会では、ジャンユンカーマンの「映画 日本国憲法」を上映しました。この上映会は反響を呼び、いくつかの加盟県団でも「映画 日本国憲法」の上映会が行われるなど、全国各地に広がりを見せていきます。「NEWSに強くなろう 〜憲法9条編〜」と題し上映会を行った滋賀県では、参加者全員で短冊に平和への思いを綴ったところ、次のような声が寄せられました。
「しない!させない!戦争! 知ろう!広めよう!憲法9条! 私たちの平和が永遠に続きますように」
本当に大切なことを学習する機会を奪われている若者たちにとって大切なことは、基本的なことを繰り返し繰り返し学んでいくことです。若者は決して無関心ではありません。学習の機会をつくっていけば、必ず響いていきます。地道ではあるけれど、そのことこそが私たちに課せられた課題であり、平和憲法を活かしていく確かな道のりなのです。
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