ドキュメンタリー映画「シリーズ憲法とともに歩む」
 
憲法ー歴史・未来館
  宗教者は憲法にどう向き合ってきたか
村中祐生(「宗教者九条の和」世話役・天台宗僧侶)
2007/04/19

忠霊塔奉賛会の慰霊追悼行事
  今年春彼岸会の頃、私は簡易僧衣を着けて忠霊塔奉賛会の主催する慰霊行事に参列した。神主一人が中心となって幣帛を奉献する儀式をすすめ、次いで地域寺院の中から順番で選ばれた若い僧が追悼の表白を献じた。奉賛会の役員の他に地域代表として町毎の自治会会長が来賓となり、様々な地区諸団体の長たちが参列した。私は、奉賛会の行事を支援する社会福祉協議会の一員であったことで出席要請を受けていた。
  忠霊塔前の広場は、私にとって思い出の場所の一つである。忠霊塔が造られたのは戦争中のこと、間もなく終戦となる頃である。国民学校6年生になった私たちは、その前庭に芝生を植えて散水する作業に従った。図体の大きい私は、水をバケツでリレーして送る最先端にいて、出来るだけ遠くに広がるように水撒きに努力したものだ。その前庭は松林であった。高等科の生徒は、その松根を掘って松根油を造る助けとなった。それはガソリンの代用になったという。また忠霊塔の内部には、川原から拾ってきた小石に経文の一字を書いて納めている。地域の多くの人がその書写に参加している。
  やがて戦争が終わり、成人した私は仏教会に属する住職の一人として毎年の慰霊祭に参加し、戦死者・戦没者を追悼する塔婆を書いて遺族に渡したものである。その後数年して、自治体が主催するその種の宗教色の強い慰霊の行為は、政教分離の精神に反するという理由で、行政の側の人たちが関わる形はなくなっていた。その後は奉賛会が継承している。
  私は、戦後50年を記念して、私が住職を務める寺の境内に、聖観音像を奉って檀徒の方の戦死者・戦没者の法名や戦死の年月を側壁に刻んだ。その時の表白に、私は憲法の前文を要略して戦後日本の国家の在り方を顕す意を深く汲んで、平和を念ずる想いを叙べて追悼の意とした。その当時の戸数から数えると、五軒に一人の若者が戦死・戦没していることがわかる。その日は12月8日、太平洋戦争が始まった記念の日、釈迦牟尼佛成道の日に当たる。以後、その日を期して聖観音像の前で平和を祈念する行事を続けている。寺に隣接する保育園・幼稚園の園児やその祖父母が、行事の後のお汁粉の接待を楽しみにして参加してくれる。およそ六百人になろうか。

政教分離と愛国心教育
  石原慎太郎都知事が当選した報告を、靖国神社参拝をもって行ったというテレビ画像が映った。石原氏はかつて「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」の一人であった。いま安倍首相が靖国神社に参拝するかどうか、その言動が国際社会からも関心をもたれている。首相は参否の明言を避けた。その前、小泉首相の参拝が国際的にも批判された。そして安倍首相の慰安婦問題発言で、またまた近隣国から強い批判が加えられている。また、この頃、それらの言動に対する国民からの批判があった場合には、国政の中心にある要人たちが挙って「自虐史観」に成るものだといとも簡単に一蹴する発言があった。
  その先、昭和30年代の初めから、靖国神社の護持については、その推進を図る勢力の活動が継続し、首相参拝の実際が例となって今日に至っている。それに対しては早く全日本仏教会の反対表明がある。また、昭和四十年代半ば、靖国神社創立100年記念の前後には多くの宗教諸団体が靖国法案反対声明を発表している。靖国神社参拝で最も顕著な意思をもって話題となったのは、数度にわたる中曽根康弘元首相の公式参拝である。それについて、各地から違憲訴訟が提起された。昭和61年には、中曽根首相は参拝せず、16閣僚のみが参拝するところとなり、真宗教団連合は靖国公式参拝の中止要請文を首相に提出している。それら抗議や提訴が相次いだことはいまだ記憶されている通りである。
  その頃、私は凡そ三か月間、中国仏教の研究の旅に出た。文化大革命が終わって暫くした時期である。各地で仏教復興の様相が明らかで、その意気の盛んなことが幸いであった。日本仏僧であることをもって、各地の地区共産党の施設を利用させてもらった。地方には宿泊の場が無いからである。視察を望んでいた幾つかの寺刹は廃寺跡となり、日本軍の爆撃によって破壊されたことを知らされた。他の破壊された寺の跡地の一角に、日本軍による集団殺戮が行われたという処の指摘、山の岩間に日本軍の銃座が設けられ道行く村人が狙い撃ちにあった処等、それらの事態が起こった現場を実際に見た。また到るところに抗日烈士の塔があった。それら巡った処は、江漢平原、江南平原、江淮平原の地、広大な範囲に及ぶ。それらの地では、多くの日本軍兵士が戦死した。多くの邦人が亡くなったのも事実である。時に、奥深い地の小さな集落の路で、私の姿を見かけて唾する人もいた。
  その時の見聞からは、「自虐史観」と一蹴する要人たちが、近現代における日本国の在り方の記憶をどのように形成したものなのか、懐疑の念を持たざるをえない。
  言われるように、天皇の軍隊と日中戦争、あるいは広く東アジア等地域に及ぶ太平洋戦争は、ポツダム宣言受諾をもって終結した。治安維持法廃止、天皇の神格否定、そして、宗教法人令改正公布となり、神社は他の宗教と同じ扱いを受けることになった。また、日本国憲法が公布され、信教自由が保障されることになった。そうして政教分離が国是となった筈である。それが靖国神社参拝を図る人びとによって歪曲され曖昧にされようとしている。
  なおまた、その間に愛国心の教育を実行させようとする、その教育基本法の改定を意図する言論が強まりつつあることを憂えないではいられない。たとえば、愛国は忠君愛国の熟字で知られるところ、福沢諭吉はこの語を「国家の為めには」と意味付け、歩兵操典に「愈々忠君愛国の精神を砥礪し」とあるように、軍国少年として育てられてきた私の記憶にある言葉である。

この国の宗教の行方と憲法
  この原稿起草の4月16日、国民投票法案の参議院での審議が始まった。この法案が一般に言われるように、「戦争ができる国へ」傾斜していく方向に動く端緒となる語りを含む可能性を恐れなければならない。平和憲法の理念は世界の国々が認知し、人類の将来の文化文明構築の行方に語り継がれていくべき人々の理智が顕わされていると信じている。
  宗教は、人の精神を豊かに安穏に培う土壌を創り、叡智を養う教化を基軸としている。それは人間の文化的基層を為す「仏国土」の浄化や成就を期するものであり、国家の権力的構造を構想する国体の本義のような理とは無縁である。かつての帝国日本と植民地神社の創建とを連携させた歴史は、憲法によって否定された。信教自由の原則は、その方向を確かにしている。いま宗教者は、それぞれの信条に立って、正しい宗教の理智を説き明かしていくように務めなければならないと思う。宗教者の「和」「協働」はそういう方向を深く望む想いを表している。
(2007年4月16日)

 
企画:橘祐典、片桐直樹、大澤豊 
第一篇監督・脚本:片桐直樹 90分 短縮版
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小山内美江子(脚本家) 伊藤 真(「伊藤塾」塾長) 香山リカ(精神科医) 鬼追明夫(元日弁連会長)  品川正治(経済同友会終身幹事) 橘 祐典(映画監督) 辻井 喬(作家) 山田洋次(映画監督)

 
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