ドキュメンタリー映画「シリーズ憲法とともに歩む」
 
憲法ー歴史・未来館
  異なる潮流が激しくぶつかる、いまその時
池田香代子さん(ドイツ文学者)

2007/05/25


「憲法? 変えたらいいんじゃないですか? だってもう古いし、日本って、強くない感じがしますもん。変えたらなんか面白いことになるかもしれないし。変えようって言ってる人たちがいるんだから、一度変えてみたらいいんじゃないですか?」
  明るい笑顔で若者が言います。かれらは、憲法を変えると戦争につながるかも知れないとわかっていて、そのうえで改憲に賛成なのです。
  若い人には戦争の実感がありません。それは、六十数年、このくにが戦争をしなかったからにほかなりません。若い人びとにとって、それはすばらしいことだと、すなおにうれしく思います。反面、おとなの側に、戦争とは何か、若い人びとにじっくりと考えてもらう努力が足りなかったことを、痛恨とともに思い返します。
「いや、そんなことはない、わたしたちは戦後ずっと、平和がいかにかけがえのないものか、戦争がいかに悪であるかを語りあい、若者にも伝えてきた」とおっしゃる向きもあるでしょう。たしかに、わたしたち市民は戦争を語り継いできました。その流れの中で、戦争を放棄した憲法を重く受けとめ、誇りに思い、そこに希望を託してきました。
  けれど、司法はどうでしょう。基地や戦後補償にかんする事例で、憲法を究極のものさしとして尊重してきたでしょうか。それは政治の問題だから裁判所は踏みこまないと、だんまりを決めこんできたのではないでしょうか。では、その政治はどうでしょう。戦後、ほぼ一貫して政権をになってきたのが、改憲を党是にかかげた党だったために、政治の場面からは憲法へのうっすらとした、あるいはあからさまな軽視や敵視が伝わってきてはいなかったでしょうか。それらが相俟って、憲法を軽んじ貶める、と言ったら言い過ぎなら、憲法をできるだけ無視する風潮が、教育の現場をふくめた社会全体にいつのまにか定着していたのではないでしょうか。
  若い世代は、そんな空気を吸って育ったのです。かれらが「変えてみたら?」と、軽く言い放つのも無理からぬことだと、わたしは思います。
  戦争を経験し、平和憲法の尊さを骨身に染みて理解しておられる方がたに、失礼をお許し願って、すこし酷なことを申します。ときどき、「戦争はもうこりごり」とおっしゃる方がたがいますが、それは厭戦の感情です。感情はだれかほかの人に受け渡すことができません。それは感情の押しつけであり、反撥をくらうこともあります。「負けたからそんなこと言ってるんでしょ。だったら今度は負けないようにすれば?」とか、「自分たちが巻き添えになるのはいやだけど、そうじゃなければいいってことじゃない?」とか。
  格差が進む社会の中で、失うものも未来の展望もないと思い定めた若者たちが、戦争に抵抗感を覚えず、むしろ歓迎して、反戦を言う人びとを、平和で安定した社会の恩恵の食い逃げ世代と切って捨てないと、だれが断言できるでしょう。
  そして、感情はその持ち主がいなくなるとき、持ち主とともに消えます。感情は、世代を超えた保存がきかないのです。ですから、感情に頼っていてはだめだと思います。それがまっとうな感情だと、その持ち主がいくら信じていても、だめだと思います。
  大切なのは、感情を生活の思想に鍛えあげることではないでしょうか。そのうえで、思想へと鍛えあげる元になる感情をもたない世代に多様な事実を事実として伝え、事実に即して自分の頭で考えてもらうのでないと、内外におびただしい犠牲を払って手にしたわたしたちの憲法は、受け継がれ得ないのではないでしょうか。
  じつは、憲法の思想が次世代に根づくには、もうひとつの可能性があります。もう一度、戦争に負けることです。勝つほうがいいかもしれません。戦争は、たとえ勝っても人間には受け入れがたいのだということが、今度こそはっきりしますから。ある種の企業や金融資本やそこにつらなる政治勢力はともかく、一回きりの人生を生きる一人ひとりにとっては、戦争はけっして容認できないのだということが。
  でも、それはあまりにも犠牲が大きすぎます。ところが、現政権のシナリオは、じわじわとそちらに向かって動いているかに見えます。けれど、それにたいする警戒心も、にわかに呼び覚まされています。ここ数年、改憲には賛成だけど九条改憲には反対、という人がぐんぐん増えているのがその証拠です。二〇〇七年の春の連休、みのもんたさんはテレビ番組の中で、少なくとも二度、与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」を引用し、安易な改憲論に警鐘を鳴らしました。世間の風潮に敏感な人気司会者のこの発言に、わたしは潮目が変わったことを読み取ります。
  潮目では、異なる潮流が激しくぶつかり合います。いまはその時なのでしょう。これは今後十年単位で続くでしょう。その果てに、九条改憲を、わたしたちは押し返すでしょう、たぶん。わたしたちが厭戦の感情を反戦の思想に鍛えあげるとき、「たぶん」は「きっと」に変わると、わたしは思います。

【池田香代子さんのプロフィール】
1948年東京生まれ。ドイツ文学者。口承文芸研究。
訳書に『ソフィーの世界』(NHK出版)『グリム童話』(講談社)『夜と霧』(みすず書房)『やさしいことばで日本国憲法―新訳条文+英文憲法+憲法全文』(マガジンハウス)など多数。
著書に『世界がもし 100人の村だったら』1〜4(マガジンハウス)『11の約束―えほん教育基本法』(ほるぷ出版、共著)『哲学のしずく』(河出書房新社)など多数。
日本口承文芸学会所属。世界平和アピール7人委員会メンバー。
『世界がもし100人の村だったら』の印税で設立した「100人村基金」で、日本国内の難民申請者や各種NGO、ネパールの小学校などを支援している。


 
企画:橘祐典、片桐直樹、大澤豊 
第一篇監督・脚本:片桐直樹 90分 短縮版
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